ニーチェの言葉「神は死んだ」は、その続きに真実がある

ドイツの哲学者ニーチェの言葉「神は死んだ」は、科学的なものの見方が大きな進歩を遂げた近代において、無神論的な立場を象徴する言葉として有名なものです。この言葉には続きがあります。『悦ばしき知識』(1882)の中の言葉を見てみましょう。

”神は死んだ。神は死んだままだ。そして私たちがそれを殺した。私たちは、あらゆる殺人者の中の殺人者である私たち自身をどうやって慰めたらよいだろう。この世界がこれまで所有した全ての中で最も神聖で大きなものが、私たちのナイフによって血を流して死んだ。誰がこの血を私たちからぬぐい取るのだろうか。私たちが自分自身を清めるどんな水があるだろうか。私たちはどんな償いの礼拝や神聖な奏楽を発明しなければならないだろうか。この偉業の偉大さは私たちには偉大過ぎるのはないか。私たちはそれに値するような神々に決してはなってはならないのか。”

神が死んだあとの人間の苦悩

ニーチェの言葉は、中世から近代に移り変わるヨーロッパ人に自分たちの変化を振り返る機会を与えました。中世のころのヨーロッパは教会と王侯貴族が支配する世界でした。王様とは神が与えた特権であり、「神がこの人に王様になるように言ったからこの人は王様なのだ。したがって、王に逆らうことは神に逆らうのと同じだ。」という理屈が世の中を支配していました。しかし、科学の発達を後追いする形で人権や民主主義の考え方が広がり王侯貴族が支配する中世が終わると、人々は蒸気機関が作り出す大量生産の時代に夢中になっていきます。科学的な知識が広がる中で、人々は神から離れテクノロジーの信者となっていったのです。
ニーチェの言葉の最後「私たちはそれに値するような神々に決してはなってはならないのか。」は言い換えると、「私たち一人ひとりが神になるべきだ。」と解釈されます。ニーチェの言葉には、神から離れた人間が自分たちの進むべき道を自分自身で決めることへの決意と、その道のりが決して簡単なものではないという苦悩が映し出されています。
大量消費社会の反省や地球温暖化の問題など、テクノロジーへの信仰にも批判的になりつつある現代の私たちは、もう一度ニーチェの言葉が投げかける人間の苦悩に向き合ってみる必要があるのかもしれません。