健康管理アプリの起源は日本の歩数計 数値目標におびえるより自分を客観視するツールとして割り切るべし
あなたの身体や運動に関するデータを記録するスマートフォンアプリは人気の高いものの一つです。今回読む英文では、筆者は意外にもその起源は日本で生まれた歩数計にあると指摘します。
”10,000歩は(私自身の個人的探求だけでなく)追跡革命の幕開けであったようだ。それは初めは初期の歩数計のための1960年代の日本の販売キャンペーンの一部として大げさに宣伝され、大抵の日本人が毎日5,000歩以下しか歩かない傾向があるという事実に恣意的に「基づいて」いた。どうやって彼らをもっと歩かせるか。簡単だ。それを二倍にすればよい。その数字は誤解を招くものであるという繰り返しの警告にもかかわらず―その最近のものはイングランド公衆衛生サービスのマイク・ブラナンによるもので、彼は去年「それを支持する健康指導はない」ことを明らかにしたが―それは集合的無意識の中に取り込まれるようになった。”
「1日1万歩」に根拠はない
身体を管理する代表的なデバイスとしてFitbitというスマートウォッチがあります。これは腕時計型の装置で、歩数、消費カロリー、心拍数、睡眠時間などを記録します。私たちは毎日の記録を統計的に集めながら、自分の健康管理を行うことができます。
こうした装置は実証的なデータを基にあなたが目標とすべき生活習慣を提示し、その目標に向かって日々努力すべきことを数的に示唆します。
一見素晴らしいことのように思えるかもしれませんが、この文の筆者はこうした状況に懐疑的です。
私たちがこうした装置やアプリを用いるとき、その記録されたデータをどう評価すべきか、という基準は実は余りはっきりしていません。上の英文で述べられている通り、人間が1日1万歩歩くべきであるという科学的根拠があるわけではないのです。しかし私たちは日々記録される歩数のデータを見ながら、その数値が1万を満たしているかどうかを毎日チェックして一喜一憂するようになります。私たちは根拠があるのかないのか分からない数的目標のために日々の生活を拘束されるようになるのです。
数値目標はおそらくあなたを幸せにしない
また、睡眠時間の記録は、あなたが基準とされる睡眠時間の数値を達成できなかった場合に、あなたが不健康な人間であること数的に示唆します。しかし人間の睡眠時間が常に一定である必要はありませんし、数的目標が達成できなかった結果、不健康な行いによる寿命のわずかな減少を暗にほのめかしてくるアプリの数値にあなたはストレスを感じるようになります。
これらのデバイスやアプリは目標達成の喜びを売り文句にしていますが、目標達成の喜びはほんの一瞬の出来事にすぎず、あなたはそれ以外の大半の時間を数値目標という重圧にひたすらさらされながら過ごします。私たちはそうした状態を指して「健康」と言うべきでしょうか。
しかし、そうした数値目標のノルマにさらされることは、実際にそのノルマを達成できる可能性を高めるようです。人間は数値目標によって管理される方が、管理されない人間よりもその数値目標を達成する可能性が高いのです。その意味では、これらのデバイスやアプリには価値があると言えるのかもしれません。数値目標の重圧は少なくとも「数的には」あなたをより健康にするのです。
ただし、そうした生き方を幸せだと思うかどうかはまた別問題でしょう。あなたの生活習慣が極めて極端なものならば是正する必要があるというのは理解できますが、そうでない場合においても、あなたの生活を数値目標に厳密に合わせることがあなたの人生に何を与えるかという疑問は残ります。
データとの正しい向き合い方
とは言え、データを記録すること自体が無意味だとは言えません。あなたが記録されたデータをはっきりしない基準に当てはめても有益ではないでしょうが、そのデータが自分にとって新たな発見をもたらす可能性があります。データはあなたが普段主観的に認識している自分自身を客観的な視点から観察してくれるのです。
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